震災から一年。日本は、我々は変わったか? シフトしようよ。

震災から1年が立ちました。
 
あっという間でした。
 
ちなみに、1年前、私は都知事選の選挙事務所にいました。
現職の石原都知事が立候補表明をする日で、「いざ!論戦」という日でした。まあ、それはさておき。
 
 
震災当日、東京は大混乱。 衝撃的な映像。 大企業、政治家、官僚の有事のリーダーシップの欠如。
 
東洋経済では、いち早く「国債暴落」の大きな文字が踊る刊も4月に発行されました。
 
そんなこんなで、いろいろな意味で、日本は、世界は変わる。変わらざるを得ない、と確信していました。
 
それから1年。
 
円は下がらず、 都知事選は延期されず現職が圧勝、 東電は会長が社長に復任 などなどなど、、、
一時話題になった出生率も、別に変化はないのでしょう。
 
一方で、これまでのルールで戦っている大企業は軒並み業績が悪化。閉塞感だけが、更に重くなって来ている気がします。
 
つまり、何も変わっていない。
価値観の転換は、ぜんぜん進んでいないという気がします。
 
石原都知事は、「天罰だ」という言葉を使い、バッシングされましたが、
わたしは、実は、この発言、けっこうすんなり頷ける部分がありました(確かに誤解を招く表現ですが)。
 
つまり、この大惨事は、「我々はいろいろ根本的に間違っていたのではないか」という捉え方をすべきなんではないか?
という点において、うなずけました。
 
以来、いきなり自給自足な仙人生活にチャレンジする度量と力のない私は、私なりのバランス感覚で、
新しい価値観とこれ迄の価値観の調整をとり、生活しています。
 
ちょっと、歴史観の話しをします。
 
ちかごろ、「らせん階段」のように、歴史をイメージするのがいいかなと思っていて、
「安土桃山」が物質・技術時代だとすると、江戸時代が精神時代だった。明治〜昭和が物質技術時代で、この先は、また精神時代的なものが来るのではないかと。西洋の歴史でも似たような流れがあります。
 
「サステイナビリティー」ということや「知足」ということを、価値観のど真ん中に据えてもいいのではないかと、
 
そんな事を考えながら、でも仙人にはなれずに、それでも、「らせん階段」を、一歩ずつ進んでいるつもりです。
 
しかし、皮肉にも、田舎に引っ越すと、ガソリンの使用量が増えます。
農業みたいな、実際にモノを作るような事をしようとすると、すっげー大変で、「いろんな道具に頼らなきゃ出来ない」というのが実感です。
でも、見方を変えると、チェーンソーやトラクターや、なんやかんやある現代は、自分の食べる物を自分で作る状況をたやすくゼロから構築できる、ラッキーな時とも言えます。そんな事を考えています。
 
いろいろと、皆さんにご迷惑をかけながらの、また、私自身も不安になったり、寂しく感じたりしながらの1年でした。
 
ただ、それでもお陰さまで、一歩一歩、「シフト」が進められている実感があります。
 
なんとかやってこれているのも、新幹線や、facebookSkypeなど文明の利器のお陰ですが(笑) 

現在、道のり1合目〜2合目ぐらいでしょうか?
今年、5合目ぐらいまで行ければ、と思っています。
 
来年の3・11には、足踏み状態が少しでもすくなくなりますように (祈)